ご挨拶
マルカの歩み
前ばかりをみて事業を拡大してはいけない。祖父が肝に銘じ、父、私と守ってきたことです。
お客様の家をお造りし、そしてお守りする。 幼少より地域の皆様に育てていただいたご恩に報いる思いが、創業者.近藤勝藏の精神でした。
大正3年、祖父が名付けた屋号、マルカに込めた思いです。
多くの方々のご支援を受け、林業とともに地域の皆様の家造りに尽力しました。
昭和35年、事業を引き継いだ父. 近藤 充は、子供の私をよく山に誘い植林の木々を見せてくれました。
立木と会話をしているような父の眼差しが今も目に焼き付いています。
父に木の生かし方、木の温もりを学んだ気がします。それは木を育て地産地消を心がけた父の家造りの原点だったのだと思います。
その檜林を守っています。職人さんはじめ、働く仲間を大切にした父の思いが伝わります。
平成2年、父より代表を引き継いだ私.近藤元和は、家造りでは開放型で土壁を用いた湿式工法の家造りを承継したのですが、しばらくのちは、国が推奨し、ときの主流であったグラスウールなどの綿状断熱材を用いた乾式工法により内断熱・充填断熱の家造りを続けていました。
しかしながらその家造りは気密の概念に乏しく、断熱と気密に曖昧さを残したままのものでした。
開放型の家造りの延長にあったこの工法をこのまま続けていていいのか。
施工が曖昧となりがちな内断熱・充填断熱の工法、湿気を防ぐことが出来ない家造りに悩みを持ち始めたのです。
「外断熱」の断熱工法を知ったのは平成6年のことでした。
家造りに悩みを持った私は、内断熱・充填断熱工法の不合理や欠点を補い、その温熱環境により長寿化する社会への適合をはかり、さらに家が長持ちする外断熱の家造りに魅了されました。
時代は進化するものだとこの年外断熱の工法へ切り替えを図ろうとしたのですが、自身の知識不足や当時の住宅業界での関心のなさも手伝い、周りの人たちの理解を得るには至りませんでした。
開放型の家を良しとし、湿式・乾式を問わずにこれまで長年お客様の家を内断熱・充填断熱の工法でお造りしてきたのですからなおさらのことでした。
今までの慣習やしがらみを断ち切ることのできない日々が続きました。
「外断熱」への切り替えには大工さんはじめ多くの造り手の賛同がいるべきだとその必要性を感じていました。
揺るぎない心
家造りを「外断熱」工法に切り替えたのは、平成10年のことでした。
祖父が建て住み継いできた家の住環境が劣悪となり、平成9年秋より、踏ん切りのつかぬままに内断熱・充填断熱の工法で我が家の建て替え工事をしたのです。
平成10年春、3月半ばの引っ越しでした。幾晩目かの夜、妻が言ったのです。
「お父さん、ありがとう。子供たちもとても喜んでくれています。・・でもこの家少し寒いね。」
気をつけたつもりでも内断熱・充填断熱の隙間をなくすことはできず、その家は断熱.気密の一体性に乏しく多くの熱橋を持ったものでした。また気流止めの概念も無かったことがともに寒さの原因です。
春先に寒さを感じた新居は、私の思いとともに家族の期待にも添うことができなかったのです。
私には妻のその声がこれまでの多くのお客様の声に聞こえたのです。
家族の幸せを願い、新居に暖かさを期待されたお客様の声です。
今まで誰を見てきたのか。誰のために仕事をしてきたのか。
心からお客様のために家を造るべきことが深く理解できていれば、もっと早く自身の優柔不断を断ち断熱の曖昧に目を背けることなく向き合えたはず。造り手の理解は深まり、「外断熱」工法への切り替えを決断し実行することができたのだと悔やみました。
この年、内断熱・充填断熱工法の限界を覚り家造りのすべてを「外断熱」工法に切り替えました。
切り替えてしばらくのことです。
いい家をつくる会に参加させていただくきっかけとなった
一冊の本に巡り合うことができました。
<「いい家」が欲しい。>それは先駆者である松井修三氏の著書でした。
初めて手にした日のことです。
夜が更けるのも忘れて本の世界に没入しました。
松井さんの声が聞こえるようでした。
「私もそうなのですが、造り手のあなたには過去に大きな負い目はありませんか。」
「いい家でないものを造ってきたという負い目です。」
幾度と心を打つ強い衝撃が鳴りやまず、自責の念で溢れる涙を止めることのできない夜を過ごしました。
正直という工法で建てる家造りの本質でした。
造り手としてそうでなくてはいけない。自分自身の揺るぎない心を持ち上京をしました。
松井修三氏にお会いし、いい家をつくる会に参加させていただいた日のことを忘れることはありません。
お客様のために「いい家」を造る。これからもマルカ一同この思いを大切にしてまいります。
どうかよろしくお願い申し上げます。
株式会社マルカ 代表取締役社長
近藤元和